都江堰市上流のダムに亀裂 安全確保で緊急放流を開始山陽新聞より転載
都江堰市上流のダムに亀裂 安全確保で緊急放流を開始
【北京14日共同】新華社などによると、中国の四川大地震で、震源地の四川省アバ・チベット族チャン族自治州☆川(ぶんせん)県にある紫坪埔ダムの堤頂部に亀裂が見つかり、「極めて危険な状況」(地元幹部)となったため、水利省は14日、ダムの安全確保のために緊急放流を開始した。
同ダムは2006年に完成した発電や洪水調節用の多目的ダムで、総貯水量は日本最大の徳山ダム(岐阜県)の2倍弱に当たる11億1200万立方メートル。水利省は、仮にダムが決壊すれば、約9キロ下流にある人口約60万人の都江堰市が、完全に水没する大災害になるとして対策を急いでいる。
紫坪埔ダムでは同日、水利省次官や専門家がダムを検査し、通常の放流量を大幅に超える毎秒700立方メートルの放流を行うことを決定。また万一に備えて、既に約2000人の兵士が現場に急行しているとの情報もある。
wikiより
西部大開発の一環として進められている、四川省紫坪鋪水資源開発事業の中核を成すダムである。灌漑、治水、水力発電の機能を担う。四川省紫坪鋪開発有限責任公司の監督の下、2000年から本格的な工事が始まった。なお、円借款で造られていることもあり、コンサルタント業務には日本の電源開発株式会社が参画している。
建設の際の問題点
第二ダムの建設により、ユネスコの世界遺産(文化遺産)となった灌漑設備「都江堰」が影響を受けるのではないかという懸念が、環境保護団体から出されている。
湛水予定敷に居住する約4万人の住民(チベット族など少数民族を含む)の立ち退きが必要となるが、立ち退きに関する情報は非公開となっている。このため、一方的な移住が行われているのではないかと懸念する人権団体も存在する。
四川大地震の影響
2008年5月12日に発生した四川大地震の影響により、紫坪埔ダムの堤頂部に亀裂が発生。安全性を確保するために5月14日から緊急放流を開始した。
三峡ダム

三峡ダム 問題点wikiより
住民の強制移転
ダム工事に伴い強制移転を余儀なくされた住民の数は2007年12月の時点で140万人に及ぶ。また2020年までに更に230万人が退去予定である。これら「三峡移民」の多くは充分な補償も受けられないまま貧困層へと転落しており社会問題となっている。
名勝旧跡の水没
三峡は中国の紙幣にも描かれるほどの中国を代表する名勝であり、多数の船が国内・国外からの観光客を乗せてクルーズしている。しかし、ダムができることで、長年親しまれていた景観が大きく変わってしまう。
水質汚染
三峡ダムの水没地及び周辺地域からの汚染物質の流入により長江流域、黄海の水質悪化、および生態系への影響が懸念されている。対策として、三峡ダム地区(湖北省―重慶市)の汚水・ゴミ処理場の設置が計画されており、既にその60%が稼働している。しかし、人口3000万人を超える重慶など上流域での、工業・生活排水対策が不十分であれば、貯水池は「巨大な汚水のため池」になりかねない。中国国家環境保護総局は、貯水開始後のダム地区の水質について、「大きな水質変化はない」との観測結果を発表している。だが、一部水域で、大腸菌群や浮遊物による汚染が発生していることも明らかにしており、環境への悪影響が懸念される。
また、2002年以降、エチゼンクラゲが日本沿岸で大量発生し漁業被害が深刻化しているが、その要因の1つが三峡ダムではないかという仮説が立てられており、国立環境研究所などが検証を始めている。
土砂堆積
三峡ダムは、流入する土砂で埋没してしまうのではないかと懸念する意見もある。これに対して当局は、三峡ダムは流域面積108.4万平方Km、土砂流入5.3億トン/年で、年間平均総流入量4500億トンに対し、有効貯水量は220億トンで5%にも満たない。また、土砂吐きにはダム下流側に7m× 9mのゲート23門を設け、6月~9月の洪水時に175m満水位から35m水位を下げて、洪水と共に土砂を排出する計画になっており問題は生じないとしている。
中国の清華大学では、100年に渡る土砂堆積を予測する実験を行い、懸念される土砂の堆積について次のように解説している。「年間平均5.3億トンの土砂流入と推測されるが、ダム完成直後は土砂が貯水池に堆積し、下流への流出土砂は流入してくる土砂より少なくなる。しかし75年経つと流入土砂量とダムから下流へ流出する土砂量とが等しくなる」(これは三峡ダムに限らず、世界中のどのダムにも共通して言えることである)
しかし、この手法では、ダム底にたまる砂利や栗石の排出は困難であり、また、そもそも土砂排出が計画通り機能するかに関しても疑問を呈する声がある。
地震の可能性
2006年8月、香港の中国人権情報センターは三年以内に三峡ダムが強い地震を引き起こす可能性があると発表した。また中国国務院の温家宝総理もこの件について憂慮しているとも添えられている。同発表によると、当局は1993年より同ダム近辺についての地質調査を行っているが、その結果および重要な地質資料が極秘となっている為に、外部機関が精査することが出来ないとしている。
蓄積された水の重さにダム付近の岩盤や地質が耐え切れずに「地震」を引き起こすのでは無いかという懸念が寄せられているのも事実である。仮に何らかの理由でダムが決壊した場合、その流域に未曾有の大惨事をもたらすことは必至である。
四川盆地の干ばつ
三峡ダムとの関連性を指摘されている。
チャスタイズ作戦の攻撃目標となったエーデル・ダム。

ダム災害
wikiより転載
バイオントダムは、イタリアのヴェネト州ピアーヴェ(Piave)川の支川バイオント(Vaiont)川の深い渓谷に作られた、アーチ型のダム。1963年に大規模な地すべりを起こしてダムとしては放棄された。
ダムの建設
ピアーヴェ川総合開発計画の一環として計画された。1959年に着工され、1960年11月30日に竣工した。完成当時、堤高262mと当時の世界最大を誇った。
ダムの完成後
貯水開始後、地震が頻発するようになり、水深が130mとなった時点で最初の地滑りが発生した。この地滑りで貯水池が二分される形になったため、両方を結ぶバイパス水路を建設した。
ダム貯水池津波
1963年、この年は記録的な豪雨に見舞われ、9月には貯水量を下げるために3本のトンネルから放水が行われた。そして10月9日22時39分、ダムの左岸の山が2km以上に渡って地滑りを起こして崩壊。2.5億m3以上もの土砂がダム湖に流れ込んだ。これによりダム地点で最大100mを超す津波を引き起こし、5000万m3の水が溢れ、下流の村々を押し流した。この結果、ダムの工事関係者と下流に住む人2125人が死亡し、594戸の家屋が全壊するという大惨事となった。特に直撃を受けたロンガローネ村はほぼ全滅の被害を受けた。
地滑りは、地下水位の急激な変動が引き金になるといわれており、バイオントダムではダム関係者が放流を急ぎ過ぎて水位降下が早かったのが原因だと指摘する声もある。
事故の影響
事故の責任を問う裁判が行われ、住民を避難させなかったとして8人の関係者が有罪となった。
また、この事故後、ダムの建設において周辺の地質を調べることが特に重要視されるようになった。どれだけ頑丈な堤防を作っても、周囲の山が崩落してはダム湖の水など簡単に溢れることが判ったためである。
日本では地質が脆弱なことが多く、ダム地点の地質条件については慎重な調査と対策が行われてきたが、湛水域の地質についてはダム計画決定後に調査されることが多い。そのため、時には湛水域で小規模な地すべりが発生しているが、下流に被害が生じたことはない。2003年4月に奈良県の大滝ダムで試験湛水中に白屋地区地すべり(国交省発表の土量は200万m3)が起こった。しかし斜面にクラックを生じた段階で試験湛水を中止し、地すべり対策をおこなったため、このときも下流に被害を生じていない。現在、大滝ダムは恒久対策が完了するまで本格的な運用を停止し、洪水調節ができない。(出典:大滝ダム地すべり災害(奈良県)調査報告書,国土問題,68号,国土問題研究会,2006年4月,印刷中)
チャスタイズ作戦
チャスタイズ作戦(-さくせん、Operation Chastise)とは、第二次世界大戦中の1943年5月17日に実行された(作戦自体は同年3月10日より始まる)、イギリス空軍第617飛行中隊による、ドイツ工業地帯のダムの破壊を目的とした作戦。この作戦には「反跳爆弾(Bouncing bomb)」が使用された。作戦後、同中隊は「ダムバスターズ(ダム攻撃隊)」として知られるようになる。
計画はビッカース社のバーンズ・ウォーリス技師が開発した反跳爆弾を使用することで進められた。ウォーリスは航空機の設計士で、爆撃機の設計により功績が認められた。ビッカース・ウォーリス爆撃機の開発の傍ら、ダムに対する爆弾の開発に着手する。 研究当初、10トンの爆弾を高度40,000フィート(約12,192m)から投下する予定であったが、当時その重量の爆弾を搭載できる爆撃機は無かった。 さらに、主要なドイツのダムは、魚雷による攻撃を防ぐために魚雷防御網によって守られていた。そこでウォーリスは、ドラム缶型の爆弾を水面を飛び跳ねてから爆発させるようにした。この爆弾の命中精度は高く、テストと多くの作戦会議の後、計画は1942年2月26日に予定された。 爆弾はコードネーム「Upkeep」と呼ばれた。作戦はダムの水位が一番高い5月に予定された。任務は第5爆撃機集団に与えられ、新たに部隊が構成された。当初X中隊と呼ばれ、170以上の戦歴を持つガイ・ギブソン中佐が隊長となり、21人の搭乗員が爆撃機集団から中隊に選ばれた。
標的として、ルール工業地帯のメーネ・ダム、ゾルペ・ダム、エーダーゼー貯水湖を形成するエーデル・ダムが選ばれた。水力発電施設の破壊だけでなく、工業地帯、都市部を流れる運河への影響も重要視された。
実際に作戦で使われた反跳爆弾 ダックスフォード王立戦争博物館にて中隊はタイプ464臨時改造アブロ ランカスターMk.IIIで構成された。重量を減らすために背部銃塔などの武装は撤去された。 爆弾倉扉は取り外され、爆弾は機体の下部に取り付けられた。爆弾を2本の支柱で取り付け、投下時に補助電動機によって回転させた。
爆弾を上空18mから時速390kmで目標に着弾させるには、熟練した搭乗員、夜間での低空飛行訓練だけでなく2つの技術的問題の解決が必要となった。一つ目は、機体と標的との正確な距離を知ることであった。エーデル・ダムとメーネ・ダムの端には塔があり、その塔と照準装置の角度を調節することにより、爆弾投下のタイミングを知ることに成功した。2つ目の問題は、機体の正確な高度を知るのが、当時の高度計では困難なことであった。そこで、機首と胴体にそれぞれスポットライトを、2本の光線が機体の下で横切るように取り付けられた。これにより被照明部分を水面で重なり合わせることで機体高度を知ることに成功した。搭乗員はレスターシャー州のEyebrook貯水湖とダービーシャー州上空で訓練を行った。
4月29日のテスト後、爆弾は5月13日中隊に届けられた。天候の報告の後、パイロット、爆撃手及び航法士は目標を知らされた。
攻撃
構成
中隊は3個梯団で構成された。第1波は、メーネ・ダムへの攻撃後、残りの爆弾でエーデル・ダムを攻撃する。第2波はゾルペ・ダムを攻撃。第3編隊は予備兵力として、2時間遅れて離陸し、主要なダム、またはSchwelm、エンペネとDiemなどで小さなダムを破壊する。
第1梯団は3個編隊で構成され、第1編隊にギブソン、ホップグッド、マーティン、第2編隊にヤング、アステル、モールトビー、第3編隊にモーズレー、ナイト、シャノンの計9機。第2梯団にマッカーシー、バイヤーズ、バーロウ、ライス、マンローの計5機、第3梯団にタウンゼンド、ブラウン、オットリーとバーピーにてそれぞれ構成された。作戦室はグランサムの第5爆撃機集団本部に設置された。
飛行
中隊はドイツ軍のレーダー探知を逃れるため70フィートから120フィートの低空飛行をした。第1波は高射砲を避け2本のルートを飛び、ワルヘレンとSchouwen間を通ってヨーロッパ大陸上空にに到達、オランダ上空を横断しアイントホーフェンとヒルゼの空軍基地を避けつつルール地方に向かう。第2波は北方に飛び、アイセル湖到達後第1波と合流した。
しかし、オランダ上空到達直後、第2波のモンロー機が高射砲の攻撃を受け撤退する。また、ライス機は飛行高度が低すぎ、爆弾を水中に落としてしまう。同じく第2波のバーロウ機とバイヤーズ機は海岸線到達後に墜落した。第2波内でオランダ上空で生還したのはマッカーシー機だけであった。一方、第1波はローセンダール上空でアステル機を失っただけであった。
メーネ・ダムへの攻撃
破壊されたメーネ・ダム第1波は第1目標のメーネ・ダム上空に到達する。はじめにギブソン機、次にホップグッド機が攻撃した。しかし、ホップグッド機の爆弾はダムの胸壁を飛び越して発電施設を爆砕してしまう。その後、機自体も対空砲火を受け墜落。マーティン機は三番目に爆弾投下した。この時、ギブソン機は対空砲火を分散させるため囮となってマーティン機に先行する。さらに第2編隊のヤング機、マルトビー機が爆弾を投下、メーネ・ダムを決壊させることに成功する。ヤング機、シャノン機、モーズレー機、ナイト機は、次の攻撃目標であるエーデル・ダムへ向かうギブソン機に追従する。
エーデル・ダムへの攻撃
エーデル・ダム周辺は深い霧に覆われていたため、接近は困難であった。モーズレー機は爆弾を投下するもダムの最上部に落ち、機は爆風に見舞われた。シャノン機は爆弾の投下に成功、最後にナイト機が投下し、ダムは決壊した。
エンペネ・ダム、ゾルペ・ダムへの攻撃
マッカーシー機は単独でゾルペ・ダム上空に到着する。爆弾の投下に成功するも、ダムの破壊には失敗する。バーピー機はゾルペ・ダムへ向かったが到着できなかった。ブラウン機はさらに濃くなった霧の中で爆弾を投下するも、ダムの破壊には失敗。
タウンゼント機はエンペネ・ダムに爆弾を投下したがダムの破壊には失敗。その間、同じくエンペネ・ダムに向かったオットリー機は撃墜される。
帰還
低空飛行で帰還中、ヤング機は高射砲の攻撃を受け墜落する。
日本のダム事故
入鹿池決壊事故(入鹿切れ)(愛知県・五条川。アースダム。1868年・明治元年)
大雨によって堤体が越流・決壊。下流の住民941人が死亡し行方不明者多数。明治以降における日本のダム事故において最悪の被害を出す。事故前に様々な怪奇現象が報告されたとの伝承がある。
小諸発電所第一調整池決壊事故(長野県・信濃川・バットレスダム。1928年・昭和3年)
建設された場所の基礎地盤が不良であったために、崩壊。7人が死亡する。その後場所を改めて再建されるがこれはアースダムであり、バットレスダムとしては現存せず。跡地は公園となっている。
幌内ダム決壊事故(北海道・幌内川・重力式コンクリートダム。1941年・昭和16年)
建設時の施工ミスが遠因で、豪雨の際に堤体両岸から貯水が越流・決壊。下流の住民60人が死亡。ダムはその後放棄され機能していないが現存。
夜明ダム決壊事故(福岡県-大分県・筑後川・重力式コンクリートダム。1953年・昭和28年6月)
九州北部に壊滅的被害を与えた1953年6月梅雨前線豪雨の際、筑後川の濁流がダム両岸より越流し崩壊。ダム本体の水門も破壊された。福岡・大分両県による調査も行われたが、ダム決壊によって下流の水害が増幅されたという推測は否定された。ダムは現存し稼働している。
大正池決壊事故(京都府・玉川・アースダム。1953年・昭和28年8月14日)
「集中豪雨」という語句の初見となった南山城水害(参考)により、下流のため池と共に越流・決壊。105人が死亡した。ダムはその後1960年(昭和35年)に再建され、1999年(平成11年)には重力式コンクリートダムとして改良され稼働している。
和知ダム第三ゲート崩壊事故(京都府・由良川・重力式コンクリートダム。1967年・昭和42年7月)
ダム完成の一月後、ゲートを支える鉄柱の強度不足によって突如ゲートが破損・崩壊。貯水が全て流出した。人的被害は無かったが、原因が特定されるまで運用は差し止められ、管理者である関西電力は1年後の1968年(昭和43年)12月に稼働を再開した。
日本のダム事件・訴訟
庄川流木事件(岐阜県-富山県・庄川・小牧ダム。1918年・大正6年~1933年・昭和8年)
浅野総一郎率いる庄川電力[18]が小牧ダムを建設することで、流木が不可能になることに反発した飛州木材が「慣行流木権」を求めて激しく争った事件。民事訴訟では流木権が認められたが行政訴訟で敗北、後に和解が成立し失業補償と代替道路(国道156号)が建設された。浅野のごう慢な態度が事件を長期化させた。日本におけるダム訴訟のはしりである。
宮田用水事件(岐阜県-愛知県・木曽川・大井ダム。1924年・大正13年~1939年・昭和14年)
福澤桃介率いる大同電力[19]が大井ダムを建設することで、濃尾平野の約17,000ヘクタールに及ぶ農地に用水を供給する宮田用水・木津用水の取水が困難になることに反発した農民が、江戸時代から続く慣行水利権を主張して争った事件。大同電力側も河川法で許可された発電用水利権を盾に15年間抵抗したが、1939年に電力側が今渡ダムを建設して用水の取水量を確保することで和解が成立した。
田子倉ダム補償事件(福島県・只見川・田子倉ダム。1953年・昭和28年)
電源開発が建設する田子倉ダムによって水没する田子倉地区[20]の住民が、福島県知事を通じ電源開発に高額の補償を要求。電源開発がこれに応じたことが報道で明るみに出た事件。建設省・通商産業省の反発で撤回されたが、これ以降全国各地のダム水没補償交渉に多大な影響を与えた。
蜂の巣城紛争(大分県-熊本県・筑後川-津江川・松原ダム-下筌ダム。1958年・昭和33年~1972年・昭和47年)
建設省の高圧的な態度に反発した室原知幸ら住民が、下筌ダム左岸に砦(蜂の巣城)を構えてダム建設に激しく抵抗した日本のダムの歴史上最大の反対闘争。基本的人権や財産権を盾に法廷闘争を繰り広げ、流血事件にまで発展した。公共事業と基本的人権保護の整合性を世に問い、水源地域対策特別措置法をはじめ以後のダム事業・公共事業に多大な影響を及ぼした。
二風谷ダム建設差し止め訴訟(北海道・沙流川・二風谷ダム。1993年・平成5年~1997年・平成9年)
アイヌ民族の聖地・沙流郡平取町二風谷が水没することに反発した萱野茂ら住民が、ダム建設の差し止めを訴えた訴訟。差し止めは却下されたがアイヌ民族の先住性がこの時認められた。これにより差別的法律といわれた北海道旧土人保護法が廃止され、アイヌ民族の長年にわたる悲願が達成された。
徳山ダム建設差し止め訴訟(岐阜県・揖斐川・徳山ダム。1998年・平成10年~2007年・平成19年)
日本最大級の多目的ダム・徳山ダムを巡り、水没地の徳山村住民ではなく下流である大垣市の市民団体が、ダムの建設中止を求めて事業者の水資源機構[21]と争った訴訟。一審・控訴審で原告は敗れ、最高裁に上告してダム建設は憲法違反と訴えたが、上告は棄却され敗訴が確定した。市民団体はダムが完成しても撤去を求め、争う構えを崩していない。
黒部川ダム排砂被害訴訟(富山県・黒部川・出し平ダム-宇奈月ダム。2002年・平成16年~)
堆砂の根本的改善策として1991年(平成3年)から開始された出し平ダムの排砂により富山湾の漁獲高が減少、2001年(平成15年)には宇奈月ダムとの連携排砂も開始された。富山湾の漁民の一部はこれに反発、民事調停や公害紛争調停も行われたが不調に終わり、2002年に事業者の関西電力を相手に訴訟を起こす。関西電力及びダムを管理する国土交通省北陸地方整備局は洪水時に限定した排砂を行い影響の抑制を図っているが、現在係争中。
発電用ダムデータ改ざん事件(全国各地。2006年・平成18年~2007年・平成19年)
中国電力の土用ダムで発覚したダムデータの改ざんは、国土交通省や経済産業省のその後の調査で全国各地の水力発電所においても行われていたことが判明。東京電力では八汐ダムの不正取水が明るみになり、2007年に河川法違反で塩原発電所運用停止という前代未聞の厳しい処分が下った。この問題はさらに原子力発電所のトラブル隠しにまで発展し、電力会社の信頼を失墜させる事態に陥った。
朝鮮日報/朝鮮日報JNSより
http://www.chosunonline.com/article/20020508000037
「死の行軍」で完成した金剛山ダム
金剛(クムガン)山ダムの建設は「西海閘門」以降、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)最大の建設工事だった。1986年に着工し、2段階の工事が2000年10月になってようやく終わった。着工してから翌年の1987年に事実上中断されたが、金日成(キム・イルソン)主席の死後、彼の“遺訓”だという名目で、1995年に再開された。
1995年は北朝鮮が経済的に最も厳しかった時期で、“苦難の行軍”が公式に始まった年でもある。このような時期に工事が始まったため、試練も大きかった。北朝鮮の中央通信は1999年、金正日(キム・ジョンイル)総書記の統治5年を評価しながら、5つの「驚くべき事変」に金剛山ダムの工事を含めている。
北朝鮮がこのダムを建設した目的を正確には分かりづらいが、当時工事に動員された軍人や関係者たちは「江原(カンウォン)道地域の電力不足を解決し」、「万一の時に軍事的に利用する」ためと証言している。
北朝鮮当局は1986年、金剛山ダムの建設計画を発表してから、韓国が“水攻”用だと疑惑を提起すると、これを反駁した。政務院(現在は内閣)は電力工業委員会白書を通じて、「金剛山一帯の豊富な水資源と有利な自然地理的条件を利用した水力発電所」と主張している。
労働新聞は「南朝鮮の傀儡たちは我々の平和的建設を不純な政治的目的に利用してはいけない」(1986年11月27日付け)という見出しの強度の非難記事でこれに対応した。
当時、咸興(ハムフン) 水理大学(現在の咸興水理動力大学)灌漑学科に通っていた李ジョンチョル(35)さんは、「私も初めは電気問題を解決するためにダムを建設しようとしているのに、韓国がこれを変に非難しているのだと思った」とし、「しかし、後になって『ソウル全体が浸水するかも知れない』という話しが広く伝わった」と話した。
北朝鮮の住民たちは金剛山ダムが軍事的目的で使われる可能性を当然と受け入れる雰囲気だったという。咸興水理大学で水力土木を専攻した金スンチョル(41)さんは1984年、黄海(ファンへ)南道・海州(ヘジュ)で卒業実習を行っていた時、教授から「水理工学研究所の実験結果、金剛山ダムが完成され、満水で崩壊すれば、漢江(ハンガン)の水位が4メートルにまで上がる可能性がある」という話を聞いたという。
当時、平壌(ピョンヤン)防御司令部の政治部中佐(中領)だったシム・シンボクさんは「金日成はこれが完成されれば、核爆弾よりも効果的と言っていた」とし、「軍事的目的がなかったら、住民たちが飢え死んでいる状況で、金正日がこの工事にそこまでして執着しなかったはず」と述べた。
金剛山ダムの建設は言葉通り“死の工事”だった。当時20歳だった95年、削岩技術者として工事に参加していた金チャンシク(仮名/27)さんは「地下の水路を掘る工事の途中、40人余りの小隊全員が死んだこともあった」とし、「飢えに苦しみながら、原始的な装備で作業を強いられていた」と話した。建設人力の不足で機動宣伝隊の女性隊員たちも参加したという。
作業が辛く、危険だったため、脱営兵も続出したという。工事に参加した金チャンシクさんは「3~4人だけを残して1小隊全員が逃走したこともあった。工事が終盤に近付くと、規定のコンクリート量の半分も使わずに水路を造ったこともあった」と話した。
当時、元山(ウォンサン)~温井(オンジョン)里区間の金剛山鉄道建設に参加したチャン・ミンソクさんは「工事を早期に終わらせる指揮官は出世した。不良工事を避けられない構造だった」と話した。金剛山ダムの不良工事は北朝鮮流の速度戦が招いた結果だったのだ。
金ミヨン記者



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