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「早ければ2060年に世界の終末」 ニュートンが予言
2007年06月21日11時58分
「英国の数学者・物理学者アイザック・ニュートン(1642~1727)は「早ければ2060年に世界の終末が来る」と直筆文書に予言していた。旧約聖書を「解読」した結果といい、万有引力の発見などで知られる天才が宗教に強い関心を持っていたことを示す証拠として注目される。
この文書はエルサレムにあるヘブライ大学図書館が保管しているもので、18日から初めて一般公開されている。
AP通信などによると、文書は1700年代初頭に書かれたもので、1936年にロンドンのオークションで落札されたものの一部。暗号めいた記述で知られる旧約聖書のダニエル書を読み解いて「やがて世界の終わりが来る。だが、すぐにそうなる理由は見いだせない」などと独自の分析を加えている。
別の文書では、ニュートンが宇宙の配置を反映していると信じていた寺院の詳細な寸法や構造を考察したりしている。
文書には錬金術や神学、聖書の預言に関する記述も含まれている。入手したユダヤ人学者がイスラエル政府に寄贈し、69年からヘブライ大図書館で保管されてきた。」
ニュートン wiki より
1642年、イギリス、現在のリンカーンシャー州のウールスソープ-カールスターワース (Woolsthorpe-by-Colsterworth) に産まれた。ニュートンが産まれる3ヶ月前に父親が死去し、二年後に母親はニュートンを祖母に預けて新しい夫の元へと去ったため、祖母に育てられた。幼少時は体も小さく、内向的で目立たぬ子で、友人達の格好のいじめの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして、それに勝つことが出来た。そのことをきっかけに以後自分に対する自信をもち、勉強においても才能を伸ばしていったとされる。ニュートンはいわゆる神童であった。
1655年にグランサムのグラマースクール入学、1661年には彼の叔父に当たるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジにあるトリニティーカレッジに入学する。当時の大学での講義はまだアリストテレスの説に基づく物であったが、ニュートンはデカルトやガリレオ、コペルニクス、ケプラーといった当時のより進んだ物理学者達によるアイディアを好んで学んだ。1665年に二項定理を発見し、数学の理論の構築を始め微分を発見し後に微分積分学へと発展することになった。1665年に学位を取った直後、ロンドンでペストが大流行し、予防策として大学が閉鎖されたため、ニュートンは故郷のウールスソープへと帰り、その後2年間、微分積分学と光学、重力についての研究を行った。この1665年後半から1666年の一年半でニュートンは彼が生涯に成し遂げたほとんどの研究の成果を出しているため、驚異の一年半とも呼ばれる。しかしそれぞれの発表はかなり後のことになる。
ニュートンがリンゴの木の下に座っているときに、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を思いついた、という有名な伝記があるが、これはニュートンの家の窓からリンゴの木が見えることから作られた話である。しかしこれは以後のニュートンを知る人が、彼が如何に日常に起きることに関心を持ち、そこから理論への着想を得ていたかという彼の賢さを表すものとして作られたのだと言われている。例えば同時代の作家ウィリアム・ストゥークリの書いた Memoirs of Sir Isaac Newton’s Life に1726年4月15日にニュートンと会話したことについて述べられている。
“when formerly, the notion of gravitation came into his mind. It was occasioned by the fall of an apple, as he sat in contemplative mood. Why should that apple always descend perpendicularly to the ground, thought he to himself. Why should it not go sideways or upwards, but constantly to the earth’s centre.”
また、後にヴォルテールは彼のエッセイ Essay on Epic Poetry (1727)のなかで彼がニュートンの姪に聞いた話として「アイザック・ニュートンは庭仕事をしている際に、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、彼の重力に関する最初の発想を得た」と言う逸話を紹介しているが、真偽の程は明らかではない。リンゴの木ではなくトイレで気づいた説がある。
1667年にケンブリッジ大学の教授となり、その歳に「無限級数の解析 (De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)」を書く。(刊行1671年)また論文「流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum)」を発表する。
ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。優先権をめぐって四半世紀にも及ぶ熾烈な争いが展開された。ニュートンの発表はライプニッツより遅いのだがライプニッツより早く発見していたと主張した。病的に猜疑心が強い性格であり、ライプニッツが盗んだと主張を続けて25年間の長きに亘って法廷闘争を行った。
1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。
ウエストミンスター寺院にある墓晩年のニュートンは、聖書研究や錬金術の実験などに没頭していたことがわかったため、後世に「神学者」「最後の錬金術師」と呼ばれる場合もある。晩年、「二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述」を著すが、イギリス国教会からの弾圧を恐れ、生前には発表しなかった(1754年刊)。
1689年、下院議員になるが、政治には興味が薄いためか殆ど発言をしなかった。なお、議会での唯一の発言は「議長、窓を閉めて下さい」である。
1696年には造幣局長官にもなっていた。このとき非常に熱心に職務に当たったらしく、在職中は偽金造りが激減した(偽金製造シンジケートの親分を捕らえて裁判にかけ、死刑にしたというエピソードが残されている)。また銀貨の金貨に対する相対的価値の設定において市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象が起こり図らずしもイギリスが事実上の金本位制に移行する原因となった。
局に勤めてからは錬金術に没頭し一切の科学的研究を行っていない。彼の業績は1696年までの53年間に発表されたものである
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